明治の国際人
浅田榮次博士のプロフィール

 慶応元年(1865)4月28日(太陽暦では5月22日)旧徳山藩士の浅田平作の長男として現在の川端町に生まれる。徳山藩の藩校・興譲館に学び、ついで桜馬場小学に入学し、明治10年に改称された岐陽小学を同10月に卒業している。
 その後、山口・広島・京都中学を経て明治20年9月帝国理科大学数学科に入学したが、数学研究にあきたらなくなり、より高遠な学問を修めるため渡米し、初めイリノイ州・ノースウエスタン大学で学んでいる。さらに、ニューヨーク・コロンビア大学、イリノイ州・シカゴ大学大学院などにおいて、神学およびセム系言語の研鑚を積み、シカゴ大学第1号の博士号を与えられた。シカゴ大学は、60数人のノーベル賞受賞者を輩出するほどの優秀な大学である。それを考えると、浅田榮次の博士号がどれほど名誉なことであったかがわかる。
 明治26年帰国後、青山学院神学部教授を務め、さらに明治32年創立された、東京外国語学校の英語科主任教授として英語教育を担う人材の育成に力を尽くした。彼の門下生から岩崎民平、石田憲次ら我が国の英語学・英文学を代表する人物が育っている。
 浅田博士は英語教育の権威者であるだけでなく、19世紀末に考案された国際補助語・エスペラントの普及発展に努め、明治39年、日本エスペラント協会創立に尽力し、その第一回大会においてエスペラントによる演説をしている。日本における指導者に止まらず、世界における重鎮でありエスペラントの理想でもある国際主義、絶対的平和主義は彼の本質でもあった。
 また、文部省の英語教授法調査委員、視学委員等を歴任し、科学的研究にもとずき教育の改善に努め、今日の英語教育の基礎を築いた。浅田博士が我が国の英語教育の先駆者といわれるゆえんである。大正3年11月、東京外国語学校図書館で倒れ、49歳で永眠した。多くの天才たちがそうであるように、彼もまた急ぎ過ぎた巨星であった。

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